literatur
僕は君たちに金を配りたい | 高橋文樹.com 他の思考と同様、文学「を」考えることはできないが、「について」なら可能であり、その無限定性において、字義通り「巡らせる」なら、この発想まで行かなければ、現在は欺瞞だと思う。
現代思想の臨時増刊号、11月号が宮本常一(目下、瞠目中)、12月号が上野千鶴子(少し期待外れ)である。民俗学@おとこ、社会学@おんな、ではあまりにあまりだが、妙なざわめきを覚える。
Der Medientheoretiker Friedrich Kittler ist tot: Denken, so weit das Medium reicht - Aktuell - FAZ (恐らく)チューリング経由でプログラミング<言語>(つまりSchriften全般)へ、そして数学(„Musik und Mathematik“は初めて知った)へ、向かった…
Amazon: 放浪のユダヤ人とエッセイ二篇: ヨーゼフ ロート, 平田 達治 極めて(当時も今も)あくちゅあるなエッセイ。ぶくろぐには引用をメモっといたが、それ以外。マックス・ブロートの評価が高いw
和辻哲郎 停車場で感じたこと 以前、とある会社人に言われたことを思い出した、「不安とは正体不明だからなんですね。」胡散臭しか感じ取れなかった。当文章は信用に足る。そして、死という理不尽から哲学へと導かれた中島義道も。
Japanische Gesellschaft für Germanistik - 中島敦の独乙語の時間(N. Yamamuro)[J] 中島敦の文体について。
フランツ・カフカ 中島敦訳 罪・苦痛・希望・及び眞實の道についての考察 性急。
河出書房新社|増補新版 中上健次 『軽蔑』が(何故か今頃になって)映画化されたと知って購入。内容からして一気には読めない迫力。
悲しい、と感じた瞬間には、俺は、「余り悲しくない」と思つてしまふ――と、笑ひたくさへなつてしまふ――俺は「恍惚」に浸る夢心地をもつことが出来ないの長い<今>を巡って。
Ernst Weissの著作(内、一つはタイトルをカフカの名前より取っている)が、日本では購入できない件。
最も特殊なものが真に普遍的になる。そうでない世界人は抽象である。混合人は腐敗である。混号という軽やかさにまみれた現日本に、どのように響かせるべきか。
フローベールの逸話−−または作家と結婚(下)/カフカ、太宰治、北村透谷、スティーヴンソン、ジュリアン・バーンズ、そしてフローベールその人を扱っております。
Amazon: ロラン・バルト 喪の日記: ロラン・バルト, 石川 美子 これにはどうしても点数とか、そういったものをつけられない。(あまりにも自身の経験と近すぎる。)
和辻哲郎 自己の肯定と否定と 中二病ここに極めり。
知性改善論 スピノザ『知性改善論』の序論。狂信[6]、折衷[11]、虚妄[14]といったものを含めてすら、当部分はすばらしい。自己啓発書の類より、私はスピノザの平明さ、中二病を愛す。
HamaMed-Repository: 関口存男の「やっぱり」は心態詞にも該当 −「Doch とは何ぞや?」の構造主義的解釈− dochの裡に弁証法的運動を観た関口文法の切れ味はすごい。そして、それをすくい上げる当論文(当リンク内pdfで閲覧可)のようなものが増えることを期…
前者は同一性に基くものとして単に量的関係に還元され得るのに反して、後者は類似性の基礎に質的関係を予想しているためであろう。駄洒落の哲学
「本質的に笑うべき人間の欠点は虚栄心だ」と、ベルグソンははつきり言い切つておりますベルグソン、笑いの泰斗でもあり、分類のみでは飽き足らない、機能主義者でもあった。
私は、人が十行で書けるところを、千行に書く術を知っている――と言える時が来るのを待っているのだ。十行を一行で書く私には、私自身魅力を感じない文章家は押し並べてそうだったはずなのだ。
西鶴とスタンダールが似ていることを最初に言ったのは私である/ スタンダールもアランも私には大阪人だ。会話が地の文と溶け合う時、それを騙っているのは何か(恐らくは言語そのもの)。
生理学的にいっても、眼の良いものは、頭が良いにきまっている。眼鏡萌狂が想像だにされなかった70年前。
「競馬」もあれで完結していない。あのあと現代までの構想があったが、それを書いて行っても、おそらく完結しないだろう。ヒロポンを打ち続けて、<文><学>へ、か。
平田禿木 趣味としての読書 このようなことを、正面切って言える人が現代に幾人あるだろうか。